とんど -御幣さん-
「御幣」は、悪・災いを払い清めるためのものです。
風早東では5色(赤・黄・紫・緑・白)の紙で作られていますが、地区により多少違うようです。
御幣さんは祭が終了後各戸に1本ずつ配られます。
「御幣」は、悪・災いを払い清めるためのものです。
風早東では5色(赤・黄・紫・緑・白)の紙で作られていますが、地区により多少違うようです。
御幣さんは祭が終了後各戸に1本ずつ配られます。
2月25日(日曜日) 今年最後の神明祭が行われました。
最後を飾ったのが、「風早東」と「風早向」
共に立派なとんどが造られていました。
安芸津の歴史の勉強をする際に、忘れてはいけない先生がいらっしゃいました。医者としても大先輩である阪田 泰正先生です。先生は数々の著書を出版されていますが、特に、阪田先生が中心となり結成された「安芸津郷土史を語る会」から発行された「安芸津風土記」は有名です。
阪田先生と安芸乃島
トンカラリンの場所の近くに、史跡の「拝み岩」があると書かれていたので、山手に向かいあぜ道をどんどん進んで行きました。しかしなかなか見つからず、あきらめて帰ろうとしていたところ、ススキの中に埋もれるように存在する「拝み岩」をやっと見つけました。
「安芸津は万葉の昔から古い港として栄えていたところであるのに、文化財と称するものが存在しないのはどうしたわけであろうか。」という疑問を解明するために誕生したのが、「安芸津郷土史を語る会」です。昭和44年に発足し、昭和49年には安芸津町に文化財保護委員会を設立しています。
昭和61年6月までに指定された文化財は、県指定のもの3件、町指定のもの9件と書かれています。
「目で見る安芸津町の文化財」安芸津郷土史を語る会 1986.8 より。
上の表紙写真は、信曽の「拝み岩」です。
大変お待たせしました。やっと「トンカラリン(信曽・石のくら)」に行って来ました。
謎のとんねる「トンカラリン」は昭和51年6月、安芸津郷土史を語る会により発見されたそうです。その当時はみかん畑の中で見つかったようですが、今回訪れた時は杉の木立の中に隠れるようにありました。未だに一体誰が何時、何のために造ったのかわかっていない。そこを訪れて、実際に穴の中をくぐってみたけれど、ますます疑問に思います。
安芸津郷土史を語る会の資料参考
文政二年(1819年)の「風早風土記」の中に左義長(とんど)の文字を見つけました。その箇所を抜粋します。
「正月十五日
三ケ日より神々へ供へたる餅、並に元日に汲み置く若水にて粥を炊く事旧例也、社寺へ詣り此日は「もち」とて家内休む、左義長の式は無御座候得共小児打寄り小き竹を裁き爆竹の真似を仕候」
「とんどの式はございませんが・・・」と書かれているようですが、今から188年前の風早にすでにとんどの慣習があったと考えると、なんだかすごい事だなあと思ってしまいました。
神明祭は「とんど」とも言われ、1年間の無病息災・五穀豊穣を祈り、各地で旧歴1月15日に行われる行事です。安芸津でも木谷・三津・風早などで順々に神明祭が行われています。私は今まで1度しか参加した事がないのですが、安芸津地方でも江戸時代から行われているとのことです。
長い竹を数本立て、お正月のしめ縄や書初めなどを焼き、その火で焼いたおもちを食べれば、1年中の病を除く事ができると言われています。
調べたところ、「神明の行事は全て東を優先し、神明は男神明(東)、女神明(西)の2体を巻く」と書いてありましたが、1対立っているのはそのことを表しているのでしょうか?
神明祭のことをよくご存知の方、どうぞ教えてくださいな。
安芸津の漁業といえば主にカキの養殖だと思いますが、定置網漁業も行われています。風早では、今や2組の夫婦しかこの仕事をしていないそうですが、以前一度見学させていただいた事があるので、今回はそれをテーマにしました。
今や全家庭に水道が行き渡り、スッカリ手押しポンプを見かけなくなりましたが、ありました、ありました。昔ポンプを必死にこぎ、水をカメにためていた事を思い出します。
何気なく通り過ごしていた浄福寺の石垣にも、大変な歴史が刻まれていました。
ここの石垣は、築造年代が三期に大別でき、それぞれ各時代の石垣の特色をよく現していると書かれています。
東広島市指定重要文化財(1997年)
三津小学校の脇を通り抜け山に向かって進んで行くと、隠畑という集落があります。その集落を通り過ぎるとまったくの山道となり、一体どこに行くのだろうと思っていると、突然集落が現れます。そこが伏尾。
今回は、その伏尾も通り抜け、ひたすら山道を進んでいきました。
文治元(1185)年、壇ノ浦の戦いで破れた藤原景清(平景清)は、源平の戦いで死亡した一族の霊を弔うため、大田宇井坂峠に地蔵堂を建てました。
首なし地蔵はこの地蔵堂に祭られています。